読書好き?嫌い?

脚本家の微笑み返し

 

 娘の小学校の校長先生から、子どもたちの朝会で読書についての5分間講話をしてくれと頼まれている。私が読書好きだという間違った情報が入ったらしい。脚本を書くからと言って読書家であるとは限らないし、普通の文章を書くのだって、このとおりメチャクチャだ。

 子どもの頃から学校の成績は悪かったが、やはりそれは活字嫌いに起因している。文章を読むのは今でも億劫だ。しかし、おもしろい話は好きだったので、ストーリーに身を委ねるために、無理して活字とつき合っていた。読めない漢字は飛ばして読んで平気だった。ストーリーに入っていけさえすればいいからだ。本を読んで賢くなろうなんて思ってはいなかった。

 子どもの頃、とても違和感があったのはあの図書室の貸し出しカードなるもの。単なる貸し出し事務上の記録用紙であるはずなのに、「○○さんは、学校で一番本を読んでいます。貸し出しカードがもう2枚目です」なんてことになってしまう。それと、読書感想文なるものもつらかった。自慢じゃないが、小学校1年生のときに「ニュートンを読んで」というタイトルの作文を書いて町のコンクールで入選した。おだてられるし、幼いプライドもくすぐられて、読書を「後で感想文を書く宿題」みたいに捉えているところもあった。夏休みの朝読み会とかで読む本は、そんなふうな本だった。後で感想文を書かなきゃいけないと思いながら読むと、ストーリーになかなかのめり込めなくてますます活字嫌いになったような気がする。好きだったのはSF小説だった。小学校の頃に読んだSFは、今となってはタイトルも著者も忘れてしまったが、ストーリーはよく覚えている。タイムマシンと人工冬眠装置を使って時空間を行き来する話や、地球滅亡後、人間とミュータントが宇宙ステーションから新天地を求めて旅に出る話に心躍らされた。しかし、その頃の大人は、SFは文学ではなくて、読書のうちにはいらないと思っていたようだ。

 「読書は心を育てます」類の話もあまり好きではない。心を育てるために読みましょうなんて言われたって、お勉強みたいで読みたいとは思わないだろうに。ただ、高校生の頃、あまりもの勉強嫌いと成績の悪化に我ながら閉口し、本当にバカになってしまうのではないかとの危惧のあまり、読書にふけった時期がある。(そういうところが既におバカなのだけど)それでも、賢くなりそうな本は読まないで、太宰治や坂口安吾に感化されて自虐的な考えに陥ってしまって危なかったゾ。一冊の本も読み方によっては毒にも薬にもなる。本に限らずあらゆる情報がそうだけどね。

 わが家では子どもたちに、よく絵本を読んでやっている。多元的に情報を入手できるようになった方が、将来生きる力に結びつくと思うからその重要な媒体のひとつである文章を読み解く力は大切だ。楽しみながら活字に慣れて、情報を毒とするか薬とするか、その分析ができる人になってもらいたい。

 私はというと、やはりおかしな読み方をしているようだ。読まない時期はぜんぜん読まないのに、読み出すと食事をしながらも本から目を離さない。妻の言うこともうわの空らしい。読書というより頭の中で映画を見ている状態なのです。最近ハマったのは、山崎豊子作「沈まぬ太陽」。山崎豊子の社会派作品は、綿密な取材に基づいているのでリアルで迫力がある。「白い巨塔」「二つの祖国」「大地の子」と次々に映像化されて話題になったが、この「沈まぬ太陽」はおそらく内容が内容だけに映画にもテレビドラマにもなることはないと思われるので活字が面倒でも読むしかないのだ。…だから、こんな私が読書の講話なんてできるわけないのに校長先生…。

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。