ジェンダー・フリーについて考える

脚本家の微笑み返し

 

 鹿児島県議会が、「ジェンダーフリー教育に反対する陳情」を採択したことで、様々な波紋を呼んでいるようだ。くしくも先般、某男女共同参画に関する会のご担当の方から、芝居で男女共同参画について取り組まないかとご進言いただいている。
 いぶきの芝居は、これまでも女性の社会進出を応援するようなストーリー展開に心がけてきたつもりなので、次の芝居もきっとそんな筋になるだろう。だから、私もどちらかというとフェミニストなのかも知れない。しかし、県議会が採択したと言う陳情の詳細は知らないものの、昨今のことさらジェンダーフリーを振りかざす方々の言には違和感を覚えていた。
 
 ここで、「ジェンダー」について解説。生物上の性差を表現する「セックス」に対して、歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異(goo辞書)を表現する言葉が「ジェンダー」である。しかるにこの「ジェンダー」が女性の社会進出を阻んでいるのだからこれを取り除こうというのが「ジェンダーフリーの活動」で、そのためには小さいうちから、ジェンダーの観念を抱かないように教育しようというのが「ジェンダーフリー教育」なのだ。

 だから、「女の握った寿司なんか食えるかべらぼうめ」とおっしゃる方や、「女じゃわかんねえや、上司を出しな、ナニ上司も女かよ」などとおっしゃる方、はたまた「女の操縦する飛行機なんかに危なくて乗れるかよ。降ろせ。パラシュートよこせ」と飛び降りられる方などは、脳みそがジェンダー菌に侵食されカチンコチンになっておられる方なのだ。

 しかし、「ジェンダー」と「セックス」の境にきちんと線引きできるのだろうかと私は思う。生物上の性差とはチンチンがあるかないかだけで、あとは全部ジェンダーだと、乱暴な言い方をする人はいないと思うが、例えば、女の子が暖色を好む、人形遊びを好む、男の子が寒色を好む、攻撃的な遊びを好むのは、これはジェンダーだろうか。

 生物上の最も大きな性差は、やはり男は射精して、女は受胎して10ヶ月あまり胎内で子どもを育みそして産む、さらに女は数ヶ月授乳して、少なくとも子どもが食物を咀嚼して飲み込めるようになるまでは、その手に抱いていなければならないということではないか?これが生物上の性差であり、種を保存するということが生物にかせられた最も重要な本能であるならば、女がその種を保存するための重要な期間を迎えるに向けて、暖かいものを連想する色を好み、人形と戯れることも生物上の性的特徴と言えないか。

 そう考えると、様々な「ジェンダー」と思われていたものが、実は生理学的に生物上の性差として説明できるのではないかとも想像する。もちろん私には説明する力はないけれど、立証できる研究者がおられるのではないだろうか。そして、そういった生物上の性差を「ジェンダー」と決め付けて否定するということは、種を保存するという本能自体をも否定することにつながらないか?母親による児童虐待の横行や少子化と結びつけるのは飛躍しすぎか?

 ただ、「女の大工が建てた家なんかに住めるかちくしょう」だの「女が神聖な土俵に上るな」だの「ウチとの取引に女をよこしやがったな」などという方々は、頭骸骨を割って脳みそをよく洗ってみられたほうがよいとは思う。歴史的・文化的・社会的に形成された性差で虐げられてきたのは女性であることは明白であって、これを乗り越えるためには、さらに努力が必要であろう。男女共同参画社会の実現のためにも、小学生の鞄の色などで議論するのではなく、立ちふさがっているほんとうのジェンダーを見極めるべきではないか。

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。