もう一度、ジェンダーフリーについて考える

脚本家の微笑み返し

 

 わが劇団が男女共同参画社会を題材にした芝居をやるというので、町の推進検討会にオブザーバーとして参加した。で、なんと委員でもないのに途中で発言を求められて、ベシャリベタでアドリブもきかないくせに何か言おうとしてヤッパ墓穴を掘ってしまった。きっと3日間くらい後悔するだろう。講師の話にどうしても疑問の点がいくつかあって、その点に触れようとしてしまって「委員でもないのに論争してどうすんの」と途中で急に思ったら、支離滅裂になってしまった。ベシャリベタはアドリブでベシャらないに限る。

 この会議でも、ジェンダーという言葉がさかんに出てきた。講師や委員の話を聞いていてますますわからなくなった。講師は「相手を尊重しあうことがジェンダーフリーだ」と言った。ありゃ、ますますわけわからん。

 配られた資料には、「服装、髪型、態度、言葉遣い、色使い、進路指導、選択、余暇活動の種類などは、自然な特性に基づいていると思われがちです。しかし、男女の生物学的な性差はごく限られており、こうした通念や性別役割分担にとらわれた見方をジェンダー・バイアスと言います」と書いてある。そのごく限られているという生物学的な性差とはいったい何か?最近ベストセラーとなった「話を聞かない男 地図を読めない女」アラン・ビーズ;バーバラ・ビーズ著(主婦の友社)では男女の行動や思考様式の違いを脳の違いによって説明している。また、男女の脳の構造が違うことはすでに明らかになっている。女性の方が右脳と左脳をつなぐ脳梁の数が多く、両方をバランスよく使うことができるのだという。脳の違いによる行動様式や嗜好の違いは生物学的な性差と言えないのだろうか。「生物学的な性差はごく限られており…」と言えるのだろうか。

 もちろん、私は女は暖色、男は寒色と決め付けるのはよくないとはっきり言っておく。以前のコラムでは女は暖色、男は寒色を好む傾向があると言ったのであって、それが正しいと言ったわけではない。男でも赤い色を好む人はいるし、女でも青い色を好む人はいる。

 実は人間の性は男と女の2種類ではないと言う人もいる。前出の脳の性差、ホルモンの性差、など細分化すれば30以上に分かれるというのだ。そのすべての人たちの人権が守られ、性差によって不合理に差別されないために男女共同参画社会を実現させなければならないのだと理解する。そういった意味で「相手を尊重しあうことがジェンダーフリーだ」というのなら充分理解できるが、「生物学的な性差はごく限られており、あとはすべて悪しき因習によって決め付けられたものだ」としてしまうジェンダー論であれば、なんだかついていけない気がする。お互いの性を理解し合うのでなくすべて同化すべきだということなら違和感を覚える。

 もうひとつ、男女共同参画の問題で一番解決されなければならないのは、就労と子育ての問題だ。講師は「子どもは集団の中のほうがよく育つのだ」と言った。乳幼児が発達段階で友達を求め始めるのは、3歳くらいからで、共同で遊べるようになるのは4歳くらいである。だから保育園や幼稚園の遊びの中で社会性を学ぶことは重要なことである。しかし、正しく学んでいくためには家庭への帰属性が充分満たされていなければならない。子どもは親の愛情に満たされなければ正しく育っていかない。皆、そのことがよくわかっているから、悩むのだ。そういったことが少子化の大きな原因のひとつである筈だ。

 3歳に満たない乳児を施設に預けるということは、スキンシップしかコミュニケーション手段がない乳児にとって接する時間を短縮させるということだ。逆に育児休暇をとって子育てに専念するということは、その期間の職場でのキャリアを失うということだ。どちらかを犠牲にしなければ、働きながら子育てはできない。これらが解決される兆しはないし、もちろん「子どもは集団の中のほうがよく育つのだ」という言葉で解決できる問題ではない。

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。