「パパの明日はわからない」を観て

脚本家の微笑み返し

 

 以前、「劇団ふるさときゃらばん」の「一億円の花婿」という作品に対して、酷評する感想文を書いて同劇団の親しい制作部員に見せたことがあった。「一億円の花婿」は決して演劇的に酷評されるべき作品ではなく、むしろ巷では高く評価されていた。もちろん、私ごとき素人が、演劇的、芸術的評価をくだすなどという大それたことはできない。私の場合、この劇団に対する思い入れと、思い込みの深さから、表現すべき方向性が違うのではないかと指摘したかったのだ。その感想文がどうも他の劇団員にも読まれてしまったらしく赤面の至りである。

 今回、「パパの明日はわからない」を観た。そこには私の思い込んでいる「ふるさときゃらばん」があった。なんのことはない。私の好きなストーリー展開だったというだけの話なのだが、そのことが嬉しくて、この劇団のファンであることを誇りにさえ思ったのだった。

 「ふるさときゃらばん」が展開する農村を舞台にしたカントリーミュージカルと、都会を舞台にしたサラリーマンミュージカル、どちらも中心にあるのは家族だ。不安定な世情と押し寄せる苦難のなかで、家族は崩壊し、しかし再生する。その再生される瞬間が、「ふるさときゃらばん」のどの作品の中でもみごとに表現される。「ザ結婚」では、妊娠して夜逃げをする娘に両親が手縫いのオムツを持たせる。「このオムツの半分くらいはお父さんが縫ったのよ」というセリフはみごとだった。家族の再生とは、心の絆の再生である。
 
 「パパの明日はわからない」の母親は、「食卓にそろわない家族は家族じゃない」と嘆き家族崩壊のスイッチを自ら押してしまう。しかしその崩壊は、家族にとってほんとうに大切なことは何かということを、一人ひとりが理解する糸口になるのだ。そしてラスト、リストラされスーパーでパート雇用されている父親に、娘が「パパ、かっこいいよ」と言う。家族再生宣言のセリフである。家族も会社も、先行きは相変わらず不透明。厳しい現実の中で、どういう人生観を持つべきかについて、「ふるさときゃらばん」は明確に提案し、私もそれに共感したのだった。

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。