命って…。

脚本家の微笑み返し

 

 私と面識のない人が、このコラムを読むと、私という人間をどんなふうにイメージするのだろう。もちろん身長が3メートル50センチで、体重が200キロの私の姿を想像できよう筈もない。また、私が実はフランス在住の超有名なインド人でありながら父方は藤原氏、母方はメジチ家という由緒ある家柄の末裔であるなどと知ったらどんなに驚くだろうか。

 このように、インターネットとは匿名で情報をやりとりする媒体だ。相手のことは何もわからない。そんな匿名性を盾に、日常ではとても口にできないような大胆な発言、たとえば「私は目玉焼きの黄身がジュルジュルになったところに醤油をかけて、箸でグチャグチャにしたのち、ご飯にかけて野獣のように食べるのが好きだ。」などと、普段はとても恥ずかしくて言えないようなことも書き込めてしまう。

 実は、佐世保の小学6年生が同級生を殺害してしまった事件のことを考えている。今のところの報道では、チャットで不快なことを書き込まれた腹いせだったということになっている。

 この事件では、もちろん命に対する価値観の問題が重要であって、ネット社会の功罪などを論じるのは二の次である。ただ、ネット上の気安さから不穏当な発言がエスカレートして感情的になっていくというのも、なんだか、命に対する価値観の希薄化がもたらしている現象のような気がしてならない。
 
 昔、私が勤皇の志士だったころ、京都の寺田屋というところで、お上にカレーを献上するかしないかで仲間の志士と激論になり斬り合ってしまい、世に言う寺田屋騒動という事件を起こしてしまったが、あの頃は自分の命も人の命も軽かった。命に対する価値観が今とはまったく違う。たかだか100年ちょっと前のことだ。ただ、あの頃は情報が届くのが遅くて、感情の高まりにはある程度時間がかかったし、同時に頭を冷やす余裕もあった。

 最近なんだか、巷で命が軽んじられつつあるような気がしてならない。そしてそういう雰囲気はさまざまなメディアで瞬く間に伝播していっている。そんなネット社会にあって最近の大きなプロバイダーが運営している掲示板などでも、人を貶めるような発言が多くて気分が悪くなるばかりだ。命の尊厳が根本的に欠けると、人にも自分にも思いやりを持つことができなくなっていく。ハンドルネームという覆面がさらに拍車をかけさせる。チャットやBBSは、ちゃんと相手はいるものの、バーチャルな対人世界ではあると思う。相手をどんなに罵ろうが、殴られるわけではない。

 佐世保の件の小学生は、学友どうしでチャットしていたのだから、覆面の下の素顔は知っていたわけだ。それでも、雰囲気にのまれて表現がエスカレートしたのだろうか。そしてこの子どもは、覆面をとった生身の相手とぶつかり合うことではなく、パソコンのシステムを落とすように、友達の首に刃をあてて、チャットから抜けようとしたのだろうか。

 イラクの人質事件の被害者バッシングのように、負の情報はまたたくまに伝播して、あたかもそれが世論のようになってしまう。今、命の尊厳を脅かす多くの情報が覆面をかぶってネット上にも溢れている。どんなものより命は大切だという価値観が、いつまでもゆるぎないという確証はない。戦死者の遺族に「おめでとうございます」などといっていたのは、つい60年前だ。100年ちょい前には、武家の子供同士でもちょっとした諍いから刀を抜き合っていた。

 せめて、私たちは芝居で、生きることの大切さを伝えていきたい。巨大メディアに対抗できるわけもないが、匿名ではなく、生身を使って、肉声を使って、伝えていきたい。それが芝居ってえものだ。劇場でなら、私が実はフランス在住のインド人のふりをしているホビット族であることがバレたってかまいはしない。

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。