私に俳句が詠めるのか

脚本家の微笑み返し

 

 私はアマチュア劇団で、脚本を書いている。もう何年も続けているので、作品の数もそこそこ…。しかし、たいして才能があるわけではないので、人様にお観せできるホンは、2年に1本程度しかつくれない。できるだけ、毎年つくろうと焦るのだけど、私の能力ではこんなモンだ。もっとどんどん書けるのであればプロになっていようというものだ。私がプロの物書きにならなかったのは、アマチュアであることに面白みを感じているとか、地方の暮らしが好きだとか、都会の喧騒が苦手とか、顔が竹中直人に似ているとか、そんな深謀な理由ではなく、ただ能力がないということに尽きる。

 我が劇団では、オリジナル作品をやるというのが掟となっている。しかし、今のところホンを書く人間は私しかいない。劇団が地域で評価され、「次の作品はいつになるの」「次も楽しみにしているよ」などと言われると、顔では不敵な笑みを浮かべながら、実は胃を雑巾絞りされたように、キリキリと緊張しているのだということを、ここに告白し、今こそ神の許しを乞おうではないか。

 以前は、劇団活動を続けていこうという姿勢はみせつつも、作品を発表するごとに、「もうこれっきりにしよう」と密かに思っていた。ところが最近、本気で「この劇団で続けられるところまで続けてみよう」と思うようになった。私たちの芝居を応援してくださる地域の方々の存在を意識するようになったからだ。しかし、意気込んだところで、脳みそがいきなり変わるわけではなく、相変わらず、アイデアもセリフも出てきやしない。

 私が芝居を書いているので、文章を書くことがウマいのだと勘違いしている方がよくいる。田舎の狭い社会で、芝居をやるなんて、結構めだつ行為なので、「脚本家なんだからこれくらい…」とか「脚本家のセンスでこれを…」とか、そんなことを言っておだてて下さろうという方がよくおられるが、その方がわれわれの芝居を観て言ってくださっているのなら、大変ありがたくもあるが、絶対観ておられないだろう方に言われると、なんだか、カッと顔面が熱くなり、その場に穴を掘って生き埋めになりたいような気持ちになることを、将来カトリックに入信することになったら、懺悔しようと思う。今のところその予定はないけど。

 脚本がなければ芝居はできない(一般的には…)。しかし、脚本は簡単にはできないとなれば、ある程度評価された作品は、場所を変え時間を変え、広く展開させていけばよいと思うが、そこはアマチュア劇団。われわれの芝居はビジネスではないので、合理的に割り切れないものがある。合理的に割り切れないものがありすぎるほどあるのに、私たちは今回「ナム!」でそれをやろうとしている。
割り切れない何かをも乗り越えてやることで、劇団として飛躍できると信じているが、その逆だったら、すべては、私に能力がないということに起因しているのだから、石持て追われても文句は言えない。そのときは俳句を詠みながら流浪するよりほかにない。が、はてそのときに、私に俳句が詠めるのか?

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。