蛇口太郎

脚本家の微笑み返し

 

 個人サイトを開設していたのだが、もう2年以上更新していなかった。で、更新する意欲も管理する意欲も失せているので、しばらくたたむことにした。なぜ意欲をなくしたかかについては、話せば長くなるし、話してもつまらなそうなのでやめる。思えば4年前、Illustratorのスキルを上げたかったのと、イラストや散文の発表の場をつくる目的でupしたのだが、いぶきの活動の中でそういう場をいただいているし、今後はこのサイトの更新に努めていった方がよさそうだ。

 そこで、個人サイトにupしていたコンテンツで、趣旨に合いそうなものは、ここに移そうと考えた次第です。

 今回はその第1弾。ずっと前に書いた短いストーリーをupしとりました。たぶん、いぶきの作品「涙小僧」の発想の元になったストーリーだと思います。よかったら読んでください。
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「蛇口太郎」

 市太の風呂嫌いには、市太のママも閉口していた。小学2年生の暴れん坊は学校でさんざん汗と泥にまみれているというのに、平気でそのまま蒲団にもぐりこもうとして、ママは卒倒しそうになるのだ。
 ところが、今日の市太は違っていた。学校から帰るなり、風呂場に飛び込み、手や足をよく洗い、おやつを食べてからまた風呂場に閉じこもり湯舟や洗面器を丹念に洗いお湯をためて体を洗い、大嫌いな洗髪まで自分でやってしまったのだ。
 市太は昨日、先生から”蛇口太郎”の話を聞いた。24歳の春菜先生は市太の風呂嫌いを聞いて特別に市太にだけ”蛇口太郎”の存在について話してくれたのだ。
 なんと、”蛇口太郎”は毎晩、春菜先生が風呂に入っているとき風呂場の蛇口から顔を出すのだという。小学2年生の市太にも、春菜先生の入浴シーンを想像させる話は衝撃的だった。

 その晩、市太は湯舟の中でジッと”蛇口太郎”を待った。「体をよく洗って、おとなしく湯舟につかってないと”蛇口太郎”は現れないよ」と春菜先生が言ったとおりにしていた。しかし、湯気の中で頭がボーッとしてくるまで我慢しているのに、蛇口は水の玉がゆっくりふくらんでいるだけで、”蛇口太郎”の現れる気配さえなかった。
 市太は春菜先生にくってかかった。「蛇口太郎なんて現れないじゃないか」そしたら春菜先生は笑って言った。「市太の洗い方がいけなかったんだ。どこか汚れたところがあると”蛇口太郎”は現れないよ。すごく綺麗好きだからね」

 そこで今日は、手から足から全部洗って、湯舟や洗面器まで洗って、鼻の穴も指を突っ込んで洗って、「どうだ、もう汚れたところはないぞ」と、湯舟の中で待っているというわけだ。けれど、”蛇口太郎”はなかなか現れない。とうとう市太は待ちくたびれて眠ってしまった。
「てめえ、そんなとこで寝ていると溺れちまうぞ」
 それはママの声でもパパの声でもなかった。気がつくと湯舟の縁で大人の親指くらいの大きさの裸ん坊の男の子が睨んでいた。

「蛇口太郎か」
「そうだ、俺は仕方なく出てきてやったんだぞ。春菜先生に頼まれてな」
「僕はちゃんときれいにしていたのに現れなかったじゃないか」
「てめえは、心が汚れてるじゃねえか、春菜先生を疑ってただろう。おめえを風呂に入れるために嘘をついたんじゃねえかと思っていただろう」
 市太はとても恥ずかしくなった。
「もし、おめえが、人を疑わない、嘘をつかない、心も体もきれいな子供になると約束するなら、俺はこれからも出てきておめえの話し相手になってやってもいいし、ことによっちゃあ、おめえの望みをかなえてやることもあるかもしれねえがどうだ」
 市太は夢をみているみたいだった。

 市太の風呂好きにはママも閉口していた。市太は学校から帰ったら1時間も風呂から出てこないこともあった。市太は学校であったことや友達のことなどを”蛇口太郎”に話し、かなえてほしい願いごとについて相談した。”蛇口太郎”は「それはおめえのわがままだからきいてやんねえ」と言うこともあるし「そんなことだったらお安いご用だ」とかなえてくれることもあった。かなえてもらった願いごとの中には、”蛇口太郎”が市太の恋している女の子のうちの風呂場から忍び込んで眠っている彼女の耳元で「市太が好き」と百回ささやいてもらうというのもあった。彼女に市太の夢をみせて、深層心理に訴えようという作戦だったが、彼女はやっぱりつれなかった。

 市太は中学にあがった。14歳の誕生日の晩、市太はもう一度好きな娘の耳元で「市太が好き」とささやいてもらう作戦を”蛇口太郎”に頼もうと思って湯舟の中で待っていた。しかし、今日はなかなか出てこない。市太が待ちくたびれてウトウトと眠りかけた頃”蛇口太郎”は蛇口から頭だけ出して「てめえ、そんなとこで寝てると溺れちまうぞ」と市太を起こした。
「蛇口太郎、また頼みがあるんだ」
「もう、市太の頼みはきいてやんねえ。もう、出てこねえ」
「どうしてだよ。なにか怒ったのか」
 ”蛇口太郎”は市太を睨んだまま言った。
「怒ってんじゃねえ。市太は今日で14になる。これからは大人にならなきゃいけねえ。俺は人間の大人は嫌いだ。嘘をつくし、人を疑うからな」
「春菜先生は」
「春菜先生は特別だ。俺はあんな綺麗な人間にあったことねえ。それに、春菜先生からは、俺を必要とする子供のことを教えてもらわなきゃならないからな」
「僕は、嘘をつかないよ。これからもずっと嘘をつかないよ」
 市太は鼻の奥が熱くなって、涙がお湯の中にポタポタ落ちるのがわかった。”蛇口太郎”は顔を蛇口の中に隠して言った。
「大人にはな、嘘をつかなきゃならないこともある。人を疑わなきゃやっていけないこともある。市太も大人にならなきゃならんからな、今日でお別れだ」
「そんなこと言うなよ蛇口太郎」
「でもな、市太、人を裏切っちゃだめだぞ。それは嘘をつくこととは別だ。大人だってしちゃいけねえことだ」
「もう、あえないのか」
「市太が70のじいさんになったとき、まだ、子供の心を持っていたらあえるかもしれねえ。いいか市太、子供の心を持ち続けるっていうのはな、いい歳をして子供みたいに振る舞ったり、他人に甘えたりすることじゃないぞ。子供の心っていうのは”感動する心”だ。春に花の咲く音を知っているか。夏に海の水がはじける音、秋に枯れ葉のそっと地面に落ちる音、雪の下でなあ、生き物たちがじっと春を待ち続けるときの心臓の音、命の音だ。そんな音はなあ、子供の心でなきゃ聞けないんだ。市太はいい子供だった。70のじいさんになって、まだ、今の子供の心を持ち続けていたら、そんときまた会える。けどよ、そんとき市太が子供の心を忘れちまっていたら、俺が蛇口から出てきても俺のことに気がつかないだろうよ。それでも俺はかまわないがな」
「そんなこと言うなよ蛇口太郎」
「あばよ市太」
 ”蛇口太郎”はヒョイと蛇口から頭をひっこめて、入れかわりに小さな水の玉がゆっくりふくらんで、のばした市太の手の平に落ちた。それは、市太の涙と同じようにしょっぱかった。

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劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。