あの人の思い出

脚本家の微笑み返し

 

前回のコラムで書いた「日清のチリトマトヌードル」は、今も販売されていることがわかりました。情報をお寄せ下さったK県K郡C町のK様、ありがとうございました。ただし、私の目にとまらないということは販売地域が限定されているのでしょうか?引き続き皆様からの情報若しくは現物をお待ちしております。

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 さて、新しい作品づくりはまったく進んでいない。断片的なアイデアが浮かんでは、それらをパズルのように組み合わせながら結局自ら崩している。
「いったいボクはナニを書きたいの?」
 小規模の作品を2月頃にという計画も断念した。今、何も書けないでいる。

 そんなヌルい日々を送っている最中に、富良野塾「地球、光りなさい」枕崎公演観劇の日がやってきた。

 私は富良野塾公演をとても楽しみにしていた。夏にワークショップの講師としていらした納谷真大さんと再会できるのも楽しみだったし、なんといっても、倉本聰先生が劇団に同行されているということだったので、その日、私は朝からなんとなくそわそわしていた。実は、14・5年前、富良野を2日間ほど一人でうろついたことがある。あのときも、うろつきながら、なんだかそわそわしていた。

 そしてこの開演前も、そわそわしていた。無意味に客席をきょろきょろと見回していた。いや、無意味じゃない。その人がいらっしゃるのではないかと、淡い期待を抱きながら挙動不審な動きをしていた。

「地球、光なさい」はずばらしい芝居だった。私は倉本聰を、あの数々のテレビドラマのシナリオライターとして、そしてエッセイストとして、「ニングル」の作者として大尊敬していたのだが、  
劇作家、舞台演出家としての倉本聰も期待どおり。まったくぶれない倉本聰ワールドが繰り広げられた。(注:偉人に敬称をつけるのはおかしいので省いております)
 「地球、光なさい」を観ている間、今までの観劇では経験したことがない不思議な感覚を味わった。舞台上の森を少女が駆ける。すると私は、頭の中で本物の森を駆ける少女の映像を見ていた。芝居が終わったときに、私の頭の中には、肉眼で見た舞台の記憶とは別に、映像作品がひとつ出来あがっていた。

 芝居が終わって、交流会に参加した。納谷さんはじめ役者の皆さんと、そしてあの人もいらしていた。とても近づけない、まともに見れない。でも、ハムのCMのときみたいにリラックスして焼酎を飲んでいるあの人と同じ部屋にいるなんて幸せだ。と、誰かがそばに行って話しかけている。ちょっと嫉妬する。誰かが「せっかくだから倉本先生とお話してくれば…」とのん気なことを言っている。そのうち、わが劇団の女優及びコーラス陣が、お気に入りの役者さんを取り囲みはじめる。ナニ考えてるんだ!え?!歌まで歌い出した!しかも「バアさんの葬式(ナム!劇中曲)」。続けて「青空(きつね。劇中曲)」…。ちょっとあんたら盛り上がりすぎ!あ…あの人も拍手している。緊張と興奮の交流会。いぶき姉さんたちは、帰り際のあの人を捕まえて握手している。あんたたちの心臓は何でできているのだ。そしたらやおら、「これがうちの脚本家です」などと口走り私を捉まえてあの人の前に引っ張り出す。やっ、やめてくれ!く、かっ、顔がひきつるっっ…。
 「ショウバイガタキデスネ。」
 私にジョークをおっしゃった…。どう反応したか覚えていない。姉さんたちの鉄の心臓にちょっと感謝していた。そして、この正月休みには、あの人のジョークを心の糧に、スランプを力づくで脱して書きすすめようと考えている…が、どうなりますやら。

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。