「夢で逢いましょう」

県民文化フェスタinなんさつ2024 演劇の祭典

劇団いぶき

劇団いぶきは、鹿児島県知覧町で40年以上活動している劇団です。

劇団いぶきと青年団 その1

【以下の文章は2002年に知覧町立図書館が郷土の歴史と文化を記録するために刊行していた書籍「知覧文化」に掲載されたものです。】

「劇団いぶき」は、昭和52年に知覧町連合青年団内に発足した。
当時の青年団が新制作座の「泥かぶら」公演を誘致しその事業を成功させたことをきっかけに創作演劇への意欲が高まり劇団創設となった。当時の青年団は40年代の後半に校区青年団が解消され、町内を北部、中部、南部の3つの地域に分けて再編されていた。さらにその上部団体として町連合青年団があった。「泥かぶら」公演もこの連合青年団の主催事業であり、「劇団いぶき」も北部、中部、南部の垣根を越えた、連合青年団の演劇部であった。

【この当時は、大都市を除く全国のほとんどの市町村に"青年団"と呼ばれる組織があり、多くの若者が加入していましたので、自治体の中でそれなりの発言権、ステータスを得ていました。県連があり、日本青年団協議会につながる全国組織でした。】

 連合青年団では、「青年文化祭」を毎年催していた。それは、青年たちが弁論や寸劇、音楽など幅広いジャンルの文化活動に挑戦し、その文化活動を媒体として、自らの存在と主張を町民に訴えるためのイベントであった。「劇団いぶき」は「青年文化祭」を主な発表の場としていた。そして、「劇団いぶき」の創設とほぼ同時期に創作された舞踊「知覧節」の継承活動とともに、「劇団いぶき」は知覧町連合青年団のアイデンティティーを確立するになくてはならない要因となった。

 各町の青年団の上部団体として県青年団協議会があり、さらに日本青年団協議会がある。青年団とは全国的な連携のある組織であり、上部団体の主催する「青年大会」では、体育、文化の各ジャンルで全国の青年団がしのぎをけずっていた。この青年大会の演劇部門への出場も、「劇団いぶき」の主要な取り組みのひとつであった。
 青年団活動である以上、活動の主体者は先輩から後輩へと引き継がれなければならない。事業を継承するとき、形よりもその意義や熱意をきちんと継承できるかが重要であると思う。昭和60年前後が「劇団いぶき」の創設当時のいきさつや創設者たちの思いを知らない世代への移行期であった。

 昭和60年にも「劇団いぶき」は鹿児島県青年大会演劇部門に出場している。結果は努力賞で3団体出場したなかの事実上の最下位であった。筆者はこの頃から「劇団いぶき」とかかわるようになり、努力賞とは言うものの審査委員の講評の話題にものぼらなかったこの作品の脚本と演出を担当していた。昭和60年代、バブルと呼ばれた好景気に差しかかろうかとする時代だった。東京などの都市部では数百人収容規模の小劇場が次々と造られていた。それまで「アングラ」とも呼ばれていた小規模の劇団が徐々にエンターテイメント性を帯び始め、若者の間に新しい演劇文化を興していた。

劇団いぶきと青年団 その2

「劇団いぶき」は青年文化祭を発表の場に、地域住民の前で演じる劇団であった。新制作座の公演を誘致した先輩たちは、劇団にというよりも、ナマの演劇に触れた町民の表情に感動してこの劇団を創った筈である。「地域住民に芝居を提供する」ということを第一義に考えなくてはならない劇団であったのに、私たちは、流行の劇団のテクニックばかりに目がいっていた。昭和60年に創作し青年大会に出場した作品もそうした作品だった。その後しばらくは、自分たちの取り組みの矛盾に気付かぬまま、作品をつくり続けていた。昭和63年にも県青年大会に挑戦し、二席の優秀賞であったが、題材の選び方で、審査委員に酷評された。

 「劇団いぶき」はどんな芝居をやるべきなのか。その方向づけのきっかけとなることは、平成2年に起きた。鹿児島県農業青年大会という4Hクラブの県大会が知覧町で行われることとなった。
 町4Hクラブと町連合青年団は協力して演劇を創作し、この大会で上演した。地方の農業後継者の悩みや夢をベースに展開するこの芝居は、県内各地から集まった農業後継者たちの共感を得ることができた。そしてこの作品で、「劇団いぶき」は県青年大会に出場したのだ。
 60年頃からリーダーとして活動してきた数人が、そろそろ青年団を引退する時期でもあったので、記念碑的な作品として記録に残すための出場であったが、最優秀賞となり、東京で行われる全国青年大会への出場資格を得る結果となった。全国大会での受賞は逃したものの、「劇団いぶき」が何をやるべきなのか、朝靄が少しずつはれていくように、その答えとなる道が現れはじめていた。

 この頃の「劇団いぶき」は青年団の劇団であった。ならば、地域に生きる若者の存在や主張をきちんと表現しなければいけないのだった。演劇は観客がいなければ決して成立しない舞台芸術である。観客の想像力を揺り動かすことができなければ、観客の中に感動の火を熾すことはできない。そして、「劇団いぶき」の観客とは、東京の小劇場にアベックで訪れる若者たちではない。同じ地域にともに生きている人たちこそが観客なのだった。青年団活動自体が地域に生きる若者の創造の場であること、そして自分たちが何者で、誰に芝居をみせるのかという、一番大切なことをそれまで考えもしていなかったのだった。

 翌、平成3年にも県青年大会で最優秀賞となり、さらに全国青年大会では創作脚本賞と舞台美術最優秀賞を受賞した。地方の若者の挫折をとおして、地域社会と新しい世代との関係にせまろうとした作品だった。

劇団いぶきと青年団 その3

 平成6年に「劇団いぶき」は青年団の劇団から市民劇団へと脱皮した。現在の「劇団いぶき」は事実上このときに発足したのだが、中心メンバーは昭和60年頃から青年団の「劇団いぶき」にかかわり、青年団員としての経験がなければ現在の「劇団いぶき」は存在しないことを考えると、「劇団いぶき」は昭和52年に青年団の演劇部として創設されたものであると言わざるを得ない。また、青年団での演劇活動の経験を踏まえて町民参加の劇団を創ろうとしたとき、青年団が創作演劇活動に取り組まないのであれば、伝統ある「いぶき」の名称をどうしても使用したかった。
 青年団は全国的な衰退の波の中にあり、わが町の青年団もその中で戦っていた。青年団が「劇団いぶき」をやれないとなると、知覧町の演劇の火が消えてしまう。ならば、私たちは「いぶき」という名前とともにその火を残したかった。
 現在の「劇団いぶき」の構成員30人の中で、青年団活動の経験者は半分にも満たない。10代、20代の若者が演劇活動に興味をひかれて入団してくる。彼らはもちろん「劇団いぶき」と青年団を関連付けて捉えてはいないし、青年団自体がなにものであるかわからない団員もいる。しかし、いやそれだけに「劇団いぶき」の芝居をとおして、地域で生きる意味を知って欲しいと思う。だから、泥臭い題材や筋立ての中に新鮮味や斬新さを盛り込み、新しい創作を試みる。地域で生きている私たちが、地域で生きている人たちのための芝居を創作する。新たに入ってくる劇団員たちが「私たちは、脚本も音楽もダンスもすべて創っていますよ。借り物はありませんよ。この町でだって新しい文化をどんどん創りだせるのですよ」と胸を張って言い続けられるように。あの頃の青年団がそうであったように。

劇団いぶきの創作

 平成6年に、「劇団いぶき」は青年団の枠を超えて、市民劇団として再出発することになった。青年団長経験者の宮原俊郎を代表に10数名でのスタートとなった。折りしも「鹿児島県新農村振興大会」というイベントが鹿児島市の市民文化ホールで開催されることになり、そのアトラクションへの出演要請があった。願ってもない旗揚げ公演の場を与えていただいたので、新生「いぶき」にふさわしい創作を試みることとした。それは、挿入曲まで含めた完全オリジナル作品の創造である。
 演劇は、美術、音楽など、あらゆる芸術的な要素を必要とする総合芸術である。特に音楽は重要な部分を占める。その音楽までを自ら作曲し演奏できれば、完全なオリジナル作品を創作する劇団として強くアピールすることができると考えた。作曲は田中祥弘があたった。田中は作曲した音楽を、コンピューターで編曲し楽器ごとの譜面を作成した。演奏は町内で活動するアマチュアバンドに協力を依頼した。こうして、新生「劇団いぶき」の旗揚げ作品は、BGMや挿入曲をバンドが生演奏するという画期的なものになった。
 すべてを創作するということが、「劇団いぶき」のこだわりである。その後、楽器の演奏者が次々と入団し、外部に依頼しなくても自前で演奏できるようになった。さらに、コーラス隊も結成し、芝居の要所で歌が入るようになった。それらの音楽に合わせて、役者が踊る。もちろん振り付けも劇団員が行う。完全オリジナルということにこだわることで成長していった。
 巷にはすばらしい戯曲がたくさんある。すばらしい音楽もたくさんある。しかし、たとえ拙くとも、観客である地域住民の生活観の中で共感される作品、あるいは、その生活観に多少でも、新しい種を蒔いてあげられる作品を目指して、あえて“創る劇団”として活動している。

劇団いぶきの展望

 アマチュア劇団の基本となる活動は、自主公演である。自分たちで主催して、自分たちで入場券を売って公演する。基本となる活動資金は演劇活動によって調達してこそ劇団として存在し得ると考えている。
 記念すべき第1回自主公演は、平成8年2月に2日間に渡って行われた。「 奇跡-夢咲町商店街応援歌」という2時間の芝居だった。大型スーパーの進出などで揺れる商店街を舞台に、家族の絆や地域で生きる若者たちの挫折や夢を描いた。そんな芝居を、知覧の商店街で生活をされているみなさんに観ていただくことに不安もあったが、地域のみなさんは温かく評価してくださった。そしてこの作品の成功によって、ようやく劇団として本当の旗揚げを果たすことができたような気がする。
平成14年現在、5回目の自主公演に向けて準備を進めている。これからも、地域に創作の題材を求めて芝居を創り、地域のみなさんに観ていただく活動を続けていく。この町でこの町の芝居を創り続けていくことが、「劇団いぶき」のシンプルでありながらとても難しい挑戦なのだと考えている。

【以上の文章を執筆してからも、劇団の活動が続き、たくさんの作品を創作することができました。支えてくださった方々に心から感謝いたします。】