8月15日の「平和へのメッセージfrom知覧 スピーチコンテスト」は、「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」とともに、知覧町が過去の歴史を踏まえ、平和と命の尊さを語り継ぐための最も重要なイベントである。このイベントの中で、劇団いぶきの「ほたる かえる」を上演させていただいたのは、たいへん光栄であると同時に責任の重いことであった。
昨年、「ほたる かえる」の原作「ホタル帰る」を執筆された赤羽礼子さんが他界された。赤羽さんは、鳥濱トメさんの次女で、昭和20年6月6日、あのホタルを実際にご覧になった一人だ。
時の流れは、戦争の語り部を、次々と飲み込んでいく。
「ほたる かえる」に取り組む以前、「特攻隊の話はやらないのか」と聞かれることがよくあった。「知覧の劇団」だから「特攻隊の芝居」という発想なのだろう。しかし、私には「特攻隊の芝居」はできないと思っていた。私は何度もそのことを言葉で説明しようとしたが、うまく言えなかった。今まで、いろいろな劇団が「特攻隊」を芝居の板に乗せてきた。それはそれでよかった。しかし、私にはできそうもなかった。
最近のある日、車のラジオをつけたら、ダミ声の講談師か落語家が、人情噺のようなものを語っていた。途中からだったので語り手の素性は知らない。聞いていると、なんとそれは、生前の鳥濱トメさんがよく紹介しておられた負傷した腕を操縦管にチューブで固定して出撃された特攻兵士の話だった。情感をたっぷりと込めた声色に違和感があった。違和感はやがて小さな怒りになってラジオを切った。
私は映画「月光の夏」も「ホタル」もいいと思う。劇団東演の「月光の夏 母よ」も、前進座の「今日われ生きてあり」も舞台版の「ウインズ オブ ゴッド」もすばらしかった。なのに、あのラジオの表現にだけ違和感があるのはなぜだろう。その語り手も真面目に何かを訴えようとしているのかもしれないが、それが伝わってこない。
前進座が「今日われ生きてあり」を知覧で公演したのは、もう10年以上前だ。若い役者さんたちは、自分の演じる実在した兵士の写真を平和会館で探し、その顔を見つめ遺書の筆跡を何度もたどっていた。そして、俳優としての名前をそのときの役名、つまり実在した特攻兵士の名前に改名した人もいた。みんな舞台の上でその人そのものになろうとしていた。自分の演技に酔っている人間なんてだれもいなかった。「月光の夏」も「ホタル」もきっとそうして創ったのだと感じられる。私は、ラジオの語り手に会って聞いてみたい。「あなたは、本当に中島少尉になろうとしていますか」
1,036人もの人が特攻隊員として命を空に、海に投げ出したということは事実であって、1,036の本物のドラマが、平和会館に展示されている。それ以上に私たちがフィクションとしてやれることがあるだろうか。あの圧倒的な真実の前で、私の想像力なんてたかが知れている。
2001年、富屋食堂が資料館ホタル館として復元され、そのオープニングイベントに「何か演じて欲しい」と依頼された。鳥濱トメさんの孫であるホタル館館長からの依頼でなければ、私は特攻隊のことに取り組もうとはしなかったと思う。私たちは、赤羽礼子さんが書かれた文章、特攻兵士の遺書、トメさんが遺族に書かれた手紙を読ませていただくことにした。音楽を挿入し朗読劇として構成した。これは、正しいことだろうか。私は今でも悩んでいる。雲の上の実在された方々は、この朗読劇を許してくれるのだろうかと。
トメさんの手紙の文章を語る役者は、以前、途中で嗚咽して言葉がでなかったことがある。手紙の内容を観客に伝えられなかったかも知れないと、それ以来感情をコントロールすることに悩んでいた。
「コントロールなんかしないでくれ、きっとトメさんがこの手紙を読んでも泣きながら読むよ。テクニックでやれることじゃないんだ。泣きながらやるしかないんだ」
「平和へのメッセージfrom知覧 スピーチコンテスト」で上演するにあたり、そのことを劇団内で確認しあったこと。今年の印象的な出来事のひとつだった。