タラちゃんの手を引きながらチンドン屋さんの後をついていく波平さんをみて涙が頬を伝った。
皆、気づいているだろうか。サザエさんちの電話機は、ダイヤル式の黒電話だということを。ノリスケさんちの電話は、その黒電話にカバーをかけている。昔、ダイヤル式黒電話に着せる専用のカバーが流行ったことがある。黒いままの電話じゃ味気ないと誰か思ったのだろう。しかし、端に細いレースのふりふりのついた衣装を着た黒電話は、仮装行列で女装したオヤジのようだった。
物心ついたときにはテレビがあった。もちろん細い4本の足がついた白黒テレビで、ガツンとスイッチを押すと、画面の真ん中に白い点が現れ、それがジュワッと全体に広がり映像になった。スイッチを押してから5秒以上かかっていたと思う。消すときはその逆で小さな点がプチュッと消えた。
近所でもはやくテレビを買ったそうだが、カラーテレビが流行ってもしばらくそのテレビを使っていた。画面に掛けるとカラーテレビになるというインチキなカバーを売りつけにくる訪問販売員もいた。そのカバーをつけている家も結構多かった。あの頃は、インチキな置物や絵を「家運がよくなる」とか言って売りにくる人や、鰹節を売る行商のおばさんや、電気代の集金人などいろんな人がよく来た。郵便配達員も単車を降りてゆっくり茶を飲んだ。郵便配達員と、行商のおばさんと、電気代の集金人と、インチキな物売りが縁側に並んで仲良く茶を飲んでいた。
たぶん小学校1年か2年だったと思う。学校から帰ると冷蔵庫があって驚いた。おやつの握り飯を齧りながら触ろうとして母親にどなられた。塩のついた手で触ってはいけなかったのだ。
間もなく魚の行商人が来た。上半身裸で天秤棒を担いでくるそのおじさんを、世間では「はだかおじ」と呼んでいた。はだかおじは、冷蔵庫をさんざん褒め、勝手に膳棚から取り出した皿に魚を載せて冷蔵庫の中に入れた。ぶつぶつ苦情を言う母親から魚代を巻き上げていた。
そうだ。電話だった。父親は郵便局員で、郵便局員は電話を引かなければならなかったらしい。そのおかげで、郵便局と学校と雑貨店と元町会議員さんの家くらいにしか電話がない頃に、私の家にも電話があった。手動式鉛筆削り機のハンドルみたいなのがついていて、そのハンドルをガリガリと回してから受話器をあげると郵便局の交換機に繋がった。郵便局が電話交換所を兼ねていた。番号を告げて繋いでもらうのだ。
そんな訳で、父親は電話交換のための夜勤があった。夜勤の日は晩飯の弁当を届けに行くのが楽しみだった。郵便局には、電話交換機の他にウルトラ警備隊の基地の中にあるような機械がいくつかあって、それを見たり少し触ったりして喜んでいた。今にして思えば、あの事務机くらいある大きな機械が電気計算機だったらしい。
ある日、夜中に夜勤の父親から電話があった。母親が出て「父ちゃん父ちゃん」と大声で叫んだあと血相を変えて飛び出した。まだ常備消防などなかったし救急車もテレビでしか見たことがなかったから、誰にどうやって運んでもらったか知らないが、とにかく父親は病院に運ばれた。命に別状はなかった。胃潰瘍を悪くして大量に血を吐いて意識をなくしたという。吐血で汚れた郵便局を母親は必死に掃除したそうだが、あの電話交換機も血にまみれただろうか。そんなことはどうでもいいのだが、この頃の刷り込みのせいか、今でも電話は郵便局に繋がっているような気がなんとなくしている。
そしてその頃、テレビに出てくるチンドン屋さんを、いつか肉眼で見たいと思っていた。インチキ物売りやはだかおじが来るのだからチンドン屋さんも来るような気がしたのかも知れない。数軒の雑貨屋しかない村の片隅で、私はチンドン屋さんを待っていた。ずっと待っていた。