15年前に発行された知覧町の郷土史を研究発表している冊子に、「硫黄島の知覧兵士」についての文章を発見した。太平洋戦争における硫黄島の激戦は、クリント・イーストウッドによって映画化され話題を呼んでいる。その硫黄島の激戦に、知覧町からも36人が従軍し全員が戦死したという。
そこで私は、次回の劇団いぶきの新作に登場する88歳の老人の人物像を形作るために、硫黄島の戦闘についての資料を読んでいる。
資料を読む以前、「硫黄島の戦い」と言うと、「日本軍の守備部隊が玉砕し、勝利したアメリカ兵が星条旗を立てる写真で有名な島」また「オリンピックで金メダルを穫った日本兵に米軍が投降を呼びかけた」という程度の知識しか持っておらず、それが太平洋戦争史にとってどのような意味を持つ戦闘であったかも、また日本軍を指揮した栗林忠道中将という軍人の名も知らなかった。
日本の兵士約2万1千人が守る猫額の孤島を、米軍は、総参加艦船艇約600隻、総参加兵力約25万人という戦力で攻め立てた。5日もあれば戦闘は終わる筈だった。それが1ヶ月以上に亘る激戦となり、日本兵約2万人が戦死、米兵も約7千人が戦死し戦傷者数は2万1千人に上った。
関連の書籍等から読み取れる様々な記録は、決して日本軍や兵士の武勇伝でもなく、「愛する者たちを守った男たちへの賛歌」などと単純なキャッチコピーなどを充てられるものではない。肉体的にも精神的にも極限に追い込まれた兵士たちの、生への渇望と絶望の叫びを私たちはどう受け止めればいいのだろう。
知覧町は特攻基地があった町であり、劇団いぶきも「ほたる かえる」という作品で、微力ながら当時の歴史の証言を語り継いでいくことに努めさせていただいたいる。だからこそ、軍神などと言われながら飛行機に搭乗していった若者たちの辛さも、赤紙ひとつで庶民の暮らしから戦地に引きずり出され爆弾を背負って戦車の下敷きになるためにタコツボに身を潜めた若者の辛さも、等しく捉えなければならないと思う。
そして先日、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を観た。事前学習をしていたので、兵士たちを取り巻く環境は映画で描かれているよりも何十倍も酷いものであったろうと想像できる。それでも、よくぞ 日本兵にとっての硫黄島の戦いをここまで丁寧に創ったものだと感心した。映画製作に取り組まれた方々に心から感謝の拍手を送りたい。そして、戦史を読むうちに少し史実にこだわり過ぎていた私に、史実と創作のバランスの取り方を教えてもくれた。
1985年に、戦後40周年を記念して日米の生き残った兵士と遺族が硫黄島を訪れ、互いに抱擁するという合同慰霊祭が実施されている。怨讐を超えたこのような催しが、世界の他の戦闘地でも行われたことがあっただろうか。そして、60年以上を経て、アメリカの映画会社とアメリカ人の監督と日本人の俳優が、硫黄島の日本映画をつくった。こうした相手の立場を思う視点こそが平和に貢献していくということを、私たちは学ばなければいけない。
劇団いぶきの新作に登場するじいさんは、現在88歳で、昭和18年4月に招集され、鹿児島の歩兵連隊、陸軍歩兵第145連隊の兵隊として硫黄島に従軍したという設定です。じいさんの人生は劇団いぶきのコメディーの中に埋め込まれますが、その人生はシリアスにつくらせていただいています。あの時代を生きたすべての人々に敬意をこめて。