浅田次郎の「輪違屋糸里」は好きな小説だ。それがテレビドラマになって9日の夜から2夜連続で放送された。
ストーリーもセリフも、原作にほぼ忠実。しかし、原作のファンには物足りなかった。新撰組の芹沢鴨暗殺を”百姓たちによる武士殺し”とした浅田次郎の解釈の面白さがでていただろうか。「あんたは女が怖いのや、女子供といっしょに田畑耕す百姓やから…」刀を振り上げる土方歳三に言い放つ糸里のセリフに、小説を読んだときほど迫力を感じないのは、女優の力量ではなく、ドラマ全体に渡って力点のおきどころが曖昧だったからではないだろうか。
テーマをみせるというのは難しい。いや、テーマを隠すと言った方がいいかも知れない。僕の書く芝居は、「わかりやすい」と言われたり、「わかりにくい」と言われたり、同じ作品でも意見が分かれる。ストーリーもさることながら、一番描きたいことは「これです」と看板にしないから、直感してくれる人と、くれない人(それは書き手の力量不足なのです)の違いだと思う。
脚本は、毎回、反省と自己嫌悪の連続だ。「じいちゃんの日記帳」で、僕が何を描きたかったのか伝わらなかったかも知れないという恐怖。デイトレーダーの孫は、祖父の悲惨な戦争体験を知った後も、何事もなかったように相場の話しをする。人間の変化していく様をみせるのが”物語”の常道だとすれば、変化していないように見せるやり方は、僕のような下手な書き手がやり通せることだろうか。
中学校の先生から電話がかかってきた。今回の公演をみた中学生に感想を聞いたら「感動した」と言ってくれたらしい。「よくわからないけど感動した」と言ってくれたらしい。
劇団内でも議論になるが、僕は”よくわかる”芝居がいい芝居だとは思わない。僕が芝居にのめりこむことになったのは20数年前。野田秀樹の「小指の思い出」、渡辺えり子の「ゲゲゲのげ」、竹内銃一郎の「あの大烏さえも」、つかこうへいの「熱海殺人事件」,唐十郎の「ジャガーの眼」…などなどと出会ったときの「よ、よくわからないけど、なんなんだこの感動は!」というあの感触が忘れられない。ストーリーが飲み込めなくても、作者が仕掛けた”思い”が脳裏にひらめいた瞬間、感動するのではないかな。
「じいちゃんの日記帳」を観た中学生もそうだったらいいのだけど、きっとそうじゃないな。僕にはそんな力量はない。…反省と自己嫌悪の日は続く、次の作品にとりかかる日まで続く。