「鹿児島演劇見本市2011」という催しに、様々な事情から出場することとした。
劇団いぶきは、今のところ、この私が書いたホンを芝居にするということになっている。2007年に「じいちゃんの日記帳」を発表して以来、私は新作を書いてこなかった。その間もありがたいことに、地域からの公演の要望があり、過去の作品をリメイクして再演することでなんとか劇団は維持できた。
しかし、そろそろ新しい作品にとりかからないと、いよいよ過去の思い出に浸りながら茶飲み話をするばかりの集団になってしまう。私の中の一部の脳細胞が「もうそれでもいいよ。」とささやいてもいる。さわさわと、脳細胞が安きに流れて行く。
たいへんだ!3年も、新しい作品を書くということに脳みそを使っていなかったため、私の脳みそから想像力が失われ始めている。何かくだらない妄想をしようとしても、真面目な常識的なことしか思い浮かばない。
そこで私は、5月の連休を利用して妄想修行の旅に出なければならなかった。「トト様、どうしてもいかなければならないの?」と悲しげに問う幼い息子を、5つ上の娘が「トト様は、いぶき村のみんなのために行かなければならぬのだ。でも、雪が溶けてつくしが芽を出す頃には、きっとトト様は、たんとみやげを持って帰ってくるのだから我慢するのですよ。姉様が子守唄を歌ってやるから」となだめてくれる間に、わらじを履いて表に駆け出したのだ。子守唄がいつまでも耳に残っていた。
私は、開通したばかりの新幹線に乗り、黒木メイサに似た客室乗務員から黒豚弁当を買い、熊本では名菓陣太鼓を、博多では明太子を買いながら過酷な旅を続けた。
旅の間ずっと私は妄想を続けた。旅行く先々で、妄想に満ちた言動を繰り返し、ついに私は妄想の鬼と化したのだ。人々は私を怖れ私を遠ざけようとした。石もて追われながらも、私は旅を続けたが、ついに力つき行き倒れているところを助けてくれたのが、たまたま日本に遊びに来ていた英国の伯爵ダーリントン卿だったのだ。
英国に渡った私は、しばらくダーリントン卿の執事として働いたが、女中頭の黒木瞳と意見が合わず、辞めて日本に戻って来た。聞けば、戦後ダーリントン卿は没落し屋敷の者たちも離散したという。女中頭の黒木瞳の身が案じられてならない。あの意見の合わなかった夜、あのとき本当は彼女は、私に職務とは違う別のことを言おうとしていたのではなかろうか。あのときの彼女の瞳は濡れていた。それなのに真面目な常識的なことしか考えることの出来ない私には、彼女の思いを受け止めることができなかった。
日本にもどった私は、各藩に仕官の道を求めながら流浪し、京都で松平容保公に認められ「ユーはいいからここのグループにはいんなよ」と言われながら浅葱色の羽織を着せられたりしたのだが、そのグループも分裂したりして、なんやかんやでソロデビューしなければならなかった。
歌手としてデビューしていきなりオリコンの1位になり、寝る間もないくらいにテレビに出ていた時、テレビ局のスタジオの片隅に、継ぎ当てだらけの服を来た子どもが二人。「父ちゃん!」なんということか、私は妄想の旅に明け暮れるあまり家族のことも忘れていたのだ。「帰るよ。父ちゃんは帰るよ」抱き合う親子をカメラが捉えていた。世界中が泣いた。
そういう訳で、修行により少しだけ妄想することができるようになったので、新作をつくろうとしているのだが、どうもその公演が来年になりそうだ。来年まで何も発表しないというのは寂しいので、新作の予告編を作ろう。それをどこかでやろう。そうだ、鹿児島演劇見本市でやろう。
そういう大人の事情で、鹿児島演劇見本市2011に出ます。作品は次回新作の予告編です。